西陣織から派生して地域を変えた丹後ちりめん、そして播州織

DESIGN WEEK KYOTO は、これからの歴史と文化を担うモノづくり等の現場をオープンにし、交流を促すことで、地域に根付く「叡智」を世界に羽ばたかせていくためのコミュニティ。2016年に初回を迎えた DWK コミュニティには、モノを作る人、使う人、その間で伝える人など、そこに集う人に垣根はありません。あるのは、「モノづくり」というキーワードのみ。

DWK COLUMNでは、地域に根づく「モノづくり」の背景について様々な角度からご紹介しています。

丹後ちりめん

京都府の最北部に位置する丹後地域。古来から技術や文化が進んだ大陸や朝鮮半島との玄関口として、金属加工・織物・農作などの先進的な技術が伝えられてきた。絹織物は1300年前の奈良時代には織られていたという。
そんな丹後は江戸時代に飢饉に見舞われた。そこで絹屋佐平次氏は禅定寺の観音様のお告げを受け、西陣にてシボと呼ばれる独特の凹凸のある「縮緬(ちりめん)」の技術を習得し、命がけで丹後へと持ち帰った。そして最初に織られた縮緬の布は感謝を込めて、禅定寺に今も収められている。

佐平次氏がその技術を地域の人々に広く伝えたこと、そしてそれを峰山藩主の京極氏が奨励したことによって、丹後が縮緬生地の一大産地となった。一方で隣接している宮津藩ではそういった奨励策を取らず旧来からの農作に集中したことで、地域が発展せず一揆も起こるようになった。
また、西陣が大火により丹後ちりめんに必要となる撚糸機等が消失したことによって、技術を受け継いでいた丹後がさらに西陣と連携した産地として発展したという経緯もある。
自分のためだけでなく、地域のため、未来のために取り組んだ佐平次氏、そしてそれを奨励する政策を取った峰山藩。この両輪が回ってこそ、今にも繋がる丹後ちりめんの興隆があったと言える。

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江戸時代の「原初」の丹後ちりめんづくりに挑んでいる次世代

現在では、さらに効率化等の技術も進んだこともあって、この絹屋佐平次氏が作り出した、いわば原初の丹後ちりめん生地は、作られていなかった。そこで、その原初のちりめん生地に近づく取り組みを始めたのが谷勝織物工場の谷口能啓氏だ。禅定寺に保存されている佐平次氏が奉納した生地をつぶさに観察し、可能な限りその再現に挑んだ。撚糸の方法を工夫し、高度な織の技術を駆使して実現した生地は、光沢が美しく、さらに染められた色も深い。
古来から受け継がれているのは、技術だけでなくこういった「思い」なのだと改めて感じられる取り組みであるし、禅定寺が大切に原初の丹後ちりめん生地を保存していたからこそ、また300年の時を経て、次世代の谷口氏が立ち戻ることができたと言える。

原初の丹後ちりめんとの違いを語る谷口さん

おまけ 播州織との関わり

同じく西陣から技術を持ち帰って興隆した織物として現代の西脇市で作られている播州織が挙げられる。宮大工だった飛田安兵衛氏がその織技術を持ち帰り、絹ではなく地元で生産が盛んであった綿で作り始めたことが起源であり、丹後ちりめんと経緯が共通している。

織物を作るための機械、つまり「織機」は「機」の字が表しているように木でできている。そのため、織機を作る人のことを「機大工(はただいく)」と呼ぶ。宮大工の飛田氏が技術を習得できたのも頷ける話だ。
ちなみに、DESIGN WEEK KYOTOの参加事業者である「創作工房糸あそび」さんの初代ももともと宮大工で、丹後の社寺を建てるのに呼ばれたことがきっかけで丹後に定住し、丹後ちりめんを手掛けたことが創業の経緯であるという。
大工と丹後ちりめんのご縁を感じるエピソードは多い。

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